八木商店について

升屋から八木商店へ

 「升屋 ますや 」とは八木亀三郎家の屋号で、「丹波屋」を称する八木家が波止浜にいたことで、それぞれを〝升八木 ますやぎ 〟〝丹八木 たんやぎ 〟という呼称で地元民は区別していたようです。八木亀三郎の父・友蔵は、升屋八木家の5代目で、初代の升屋銀兵衛が享保元(1716)年に没したことを考えると、少なくとも江戸時代中期には波止浜で商家を営んでいたことが分かります。波止浜港観光桟橋(渡し場)前にたつ石造灯明台 とうみょうだい (嘉永2年/1849築)に、町の世話役の一人として〝升屋友蔵〟の名が刻まれています。友蔵の代は塩田経営と塩廻船が升屋の生業で、所有する神社丸が明治11(1878)年に東京日本橋と山口県下関の廻船問屋と取引のあったことが分かっています。

 友蔵の代までの墓は、波止浜の瑞光寺(曹洞宗)に葬られており、大正7(1918)年に亀三郎がまとめさせた『八木家過去帳』(矢野克太郎作成)によってその概要を知ることができます。この大正7年という年は、それまでの八木亀三郎商店を〝株式会社八木本店〟に改組した年であり、また、同商店の店舗と亀三郎家を新築した年でもあるのです。『八木家過去帳』などによれば、亀三郎は升屋の6代目を継承しておらず、6代目は升八木分家(新宅)から養子で迎えた八木常吉が継承しています。この理由については、亀三郎が、友蔵40歳のとき、後妻の子として誕生したためと考えられます。そのため、亀三郎は別に一家を立てることになりますが、明治15(1882)年に友蔵が所有する屋敷・塩田を相続しています。

 その後、亀三郎が東アジア交易に目を向け、ロシア貿易漁業商として財をなすにつれて、八木(亀三郎)商店の呼称が一般化します。ニコライエフスクから輸入する塩蔵 えんぞう 鮭は、函館が貿易の拠点となりました。そうした八木商店の事業規模拡大が、大正7年の店舗・住宅の新築につながったと考えられます。とりわけ第1次世界大戦中(1914~1919)は、山下亀三郎(宇和島市吉田町出身)や勝田 かつた 銀次郎(松山市出身)に代表される船成金 ふななりきん が出現した時期で、八木亀三郎も船成金と見ることができます。海南新聞に掲載された大正5(1916)年の「愛媛県資産家順位」で八木亀三郎は3位の150万円を有し、1位の200万円は同じ波止浜で親戚の矢野通保でした(通保の叔母が亀三郎の妻・ヨシヱ)。そして大正6年には愛媛県一の高額納税者となり、「貴族院議員多額納税者議員互選名簿」にも掲載されます。その直接国税総納額については、2位・新田仲太郎(海運業)の8,142円37銭に対し、亀三郎は約2倍の15,689円15銭でした。

  • 蟹缶詰工船絵葉書の写真
    蟹缶詰工船絵葉書
  • 母船甲板での作業(絵葉書より)の写真
    母船甲板での作業(絵葉書より)

八木本店から藤高商店へ

 「八木商店本店資料館」は、八木商店の本店として建てられ、完成をみた後で株式会社八木本店の本社機能を有することとなります。同社は一時、東京・神戸・函館に出張所があり、東京出張所は丸の内ビルディング内でした。昭和6(1931)年に本社機能を東京へ移し、これに少し先行して八木亀三郎夫妻と實通 まさやす 夫妻は東京へ自宅を構えています。これは、水産事業の企業合同に対応した動き(昭和工船会社の専務取締役に實通 まさやす が就任)と昭和4年に孫娘の千菊が楢原良一郎(後の古河鉱業社長)へ嫁いだことに関係するものと考えられます。長男の實通 まさやす に子供がいなかったことで、亀三郎夫妻は長女・房廼 ふさの の子・千菊を寵愛し、房廼が若くして亡くなると千菊を養女として育てます。このため、昭和9年に實通 まさやす が亡くなると水産事業からは撤退し、同13(1938)年に亀三郎が亡くなると後継者のいない八木本店は解散となりました。

 解散の事務と遺産相続は、八木本店の取締役だった矢野克太郎を中心に行われます。一時は千菊の次男が八木姓を称して八木家を相続しましたが、後に楢原姓に復したようです。東京青山霊園の亀三郎・實通 まさやす の墓については、楢原家が墓守をすることになります。一方、波止浜の店舗・住宅は、今治市でタオルの製造販売を行っていた合資会社藤高商店の藤高豊作が昭和14(1939)年に購入することとなります(藤高家は銀行から購入したとも)。以来、藤高家別邸として保存維持が図られ、現在は株式会社藤高(今治タオルのメーカー)の子会社・藤高興産株式会社が管理しています。

  • 塀と玄関棟の写真
    塀と玄関棟
  • 八木商店本店資料館中庭の写真
    八木商店本店資料館中庭
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