八木亀三郎について
波止浜の商家に誕生
八木亀三郎は、幕末の文久3(1863)年12月、伊予松山藩領の波止浜 (現、今治市波止浜)の商家「升屋 」に生まれました。当時の波止浜は瀬戸内有数の塩田産地で知られ、主要航路沿いにあったことで、港町として繁栄していました。亀三郎の父・友蔵(升屋6代目)は、塩廻船と塩田経営を生業とし、町年寄も務める名望家でありました。しかし、友蔵は明治17(1884)年10月、亀三郎が20歳のときに亡くなります。亀三郎は友蔵の長男でしたが、後妻の子であったことから、誕生前に分家から迎えた養子の八木常吉が本家を継承し、亀三郎は分家を立てることになったようです(分家ではあるが、友蔵の財産を明治15年に相続。後に八木本家を称する)。
亀三郎は明治20(1887)年3月にキリスト教の洗礼を受け、翌年7月に波止浜教会(プロテスタント系)設立に尽力します。
八木亀三郎
昭和初期の波止浜塩田
(絵葉書より)
ありし日の波止浜教会
(渡部宝氏提供)
ロシア貿易漁業商として躍進
亀三郎の実業家としてのデビューは、明治24(1891)年から地元有志と始めた朝鮮交易です。波止浜塩の輸出を主な目的とし、翌年にはロシア沿海州のウラジオストクにも交易範囲を広げ、自らも現地を視察しています。そして富を築くきっかけになったのが、明治26年からアムール川河口のニコライエフスク(尼港 )で始めた鮭鱒 漁業と塩蔵 鮭の輸入で、大正 6(1917)年には愛媛県一の高額納税者となっています。そしてその過程で、波止浜村長や愛媛県会議員、今治瓦斯 株式会社(現、四国ガス株式会社)初代社長や今治商業銀行(伊予銀行の前身の一つ)頭取を務めるなど、今治地方政財界の要職に就いています。
大正5(1916)年から、長男・實通 が蘭領セレベス島メナド港(現、インドネシアのスラウェシ島)を拠点とした南洋貿易に着手し、神戸に出張所を置きます。大正7年12月には、それまでの八木商店を改組して株式会社八木本店を設立し、北洋漁業の拠点として函館にも出張所がありました。しかし、ロシア革命の余波で大正9(1920)年3月に尼港事件が起きると、亀三郎は八木商店のドル箱とされたニコライエフスクの拠点を失います(尼港市街が廃墟と化し、漁場施設も破壊される)。このため、この代替地として北樺太 西海岸タムラオ漁場の譲渡を受け、大正11年から漁業の再開に漕ぎつけました。
八木亀三郎夫妻
(東予日報/大正15年12月1日付より)
長男 八木實通
タムラオの八木漁場
(大正13年、『漁り工る北洋』より)
蟹工船と鮭鱒 工船に挑戦
八木本店の南洋貿易は、第1次世界大戦後に景気が失速したことで、大正7(1918)年頃に終了したようです。さらに大正14(1925)年には、ソビエト連邦が北樺太漁場での漁業を禁止したため、せっかく整備した漁場施設を失って大きな損害を被ることになりました。このとき、八木父子が新たに手がけた事業が、大正 13(1924)年春からカムチャッカ半島西岸沖で始めた母船式蟹 漁業でした。八木本店所有の貨物船「樺太 丸」(2,831総トン)を神戸三菱造船で漁期の半年間だけ蟹缶詰工船に艤装 し、大きな収穫を得ることに成功します。そこで、大正15年春には2隻目の蟹工船「美福 丸」(2,558総トン)を投入し、同13年から昭和2(1927)年まで、わが国の工船蟹缶詰製造で日本一の生産量を誇るなど、蟹工船の先駆者として水産業界で輝きを放ちます。八木本店の缶詰は、三菱商事を通じて米国などに輸出されました。
樺太丸
(『漁り工る北洋』より)
樺太丸模型
(佐藤船舶工芸)
ただ、八木本店の成功に刺激を受け、大型母船を投入する業者が増えたことは、タラバガニ資源の枯渇を招くことにもつながりました。小林多喜二の小説『蟹工船』では、蟹工船があたかも地獄絵図のように描かれていますが、そのような船ばかりでもありませんでした。樺太丸には船主の實通 自らが乗船し、船内の労働環境には気を配りました(亀三郎・實通家族はクリスチャン)。当時、蟹や鮭の食料缶詰は、綿織物や生糸同様に外貨を稼ぐ輸出品の花形で、政府の斡旋もあって水産会社の企業合同が進みます。
昭和2(1927)年11月、八木本店の樺太丸・美福丸を含む同業5社6隻が企業合同し、昭和工船漁業株式会社が設立され、實通 が代表取締役に就任しています。後に、この会社は日本合同工船株式会社となり、日本水産株式会社(ニッスイ)へと継承されます。
一方で、八木本店はカムチャッカ半島西岸沖を操業区域にしていた蟹工船業界にあって、昭和4(1929)年に八郎丸(2,805総トン)という蟹工船を仕立て、薄利とされたカムチャッカ半島東岸沖の事業化に成功しています。翌5(1930)年には、八郎丸とともに神武 丸(5,168総トン)を東岸沖へ送り込み、神武丸は蟹漁の合間に母船式鮭鱒 漁業(沖取 漁業)に挑戦し、その時の様子が映像記録として残されています。わが国の母船式鮭鱒漁業の歴史にあって、このときの神武丸の成果は不調に終わりますが、初めて本格操業した事例として知られています。八木父子は、鮭鱒工船の先駆者でもあったのです。
その後、神武丸の経営は八木漁業株式会社をへて、昭和6年11月から日魯 漁業グループ(ニチロ)の太平洋漁業株式会社に継承されていきます。
タラバガニの標本
(八木弥五郎氏提供)
八木本店ゆかりのカニ缶詰ラベル
昭和工船漁業の宴会
(昭和3年9月、八木弥五郎氏提供)
今商騒動と八木本店整理
亀三郎にとっての悲劇は、昭和2年に自らが頭取を務める今治商業銀行(略して今商 )が約7か月間の休業に陥ったことです。このとき、亀三郎ら重役陣が不良債権処理のために私財をはたき、日本銀行から特別融資を得たことは美談として語り継がれています。この復活劇の背景には、亀三郎の盟友・勝田 主計 (松山市出身の元大蔵大臣)が尽力し、井上準之助にかけ合って営業再開に向けた取り組みを行ったようです。
一方、昭和5(1930)年1月に浜口
雄幸 内閣が実施した金解禁の影響で、八木本店の水産事業がカムチャッカ半島東岸沖の不漁も響いて不振に陥ります。これを、三菱商事を含む債権者らが〈債権を株式に変えて〉八木漁業株式会社を設立することで救済しますが、同社の経営もうまくはいきませんでした。このとき、救済に尽力した三菱商事会長は、亀三郎にとっては同郷の三宅川百太郎(今治市富田地区出身)でした。昭和6年11月には八木漁業会社と日魯 漁業株式会社(現、マルハニチロ)が合併し、太平洋漁業株式会社が設立されます。
昭和9(1934)年7月、實通 が嗣子なく49歳で病没すると、八木本店は水産事業からの撤退を決断し、それを機に亀三郎は今治商業銀行の頭取を辞任しています。そして、亀三郎が昭和13(1938)年7月に74歳で亡くなると、八木本店は解散となりました。このとき、地元紙・伊予新報は〝伊予が生んだ実業界の巨人〟のリード文で、亀三郎の偉業を称えたのでした。亀三郎と實通は、昭和4年頃には東京へ移住して自宅を構えたため(同6年に本社機能を東京へ移す)、東京青山霊園に葬られました。
今治商業銀行休業を告げる
海南新聞
勝田主計・井上準之助からの手紙